2014年の音楽生活4
つつじが咲きあとにさつきも咲く。
映画 ザ・ノース 北極の宿命
ストーリーは大したことはないと思うのだが映像が素晴らしい。オホーツクかカムチャッカを思わせる極地に先住民が
住む(実はスバールバル諸島)。ロシア人が入ってきて部落ごと虐殺する。生き残った女と子が逃げながらサバイバル
生活をする。こういう映像を見てみたかった。強制労働でなんか作ってたのはアンテナがあったので観測基地かな。
クロスオーバー歪の少ないとされるNJM2073もノンスイッチングアンプの仲間かもしれないのでミニケースで製作する。
音には確かに共通点があるがシミュレーターでみる限りでは準コンプリの回路には負荷による電流帰還がうまくかかってい
ないようだ。
作ってみると発振が止められなかったのでゲイン100倍の普通の回路で妥協してしまった。音は何か荒れたような
感じになっている。
映画 セントラル・ステーション
ドキュメンタリータッチの導入部。リオデジャネイロのセントラル・ステーションで詐欺まがいの代筆屋を営む中年女。
ブラジルが後進国なのはわかるがこの辺これ見よがしで好感が持てない。母子家庭の母親が事故死して、あっという間
にストリートチルドレンが一人誕生する。その後はこの二人が旅をするのでロードムービーのようになって展開は楽になる。
この時に流れる音楽がいただけない。シェエラザードのメロディーを拝借改変したようなのが何度もかかる。純粋音楽ファン
としてはこういうのが大嫌いだ。いろいろとトラブルが起こるが最後はうまく収まる。人の善意がテーマだったようだ。前衛的
でも何でも無いただ賞を狙ったような映画だった。
きだみのるによって発掘された大観和尚の研究ノートに凄いことが書いて有るようだ。そのごく一部。
「精神は嘘をつき易く出来ている上に、真実か嘘か解りもせぬことを真実だと思い込むことも得て有り勝ちである。
この精神のお蔭で人間がどのくらい迷惑しているかは歴史を見れば瞭然たることだ。」
このような欠陥だらけの精神を尊ぶことが間違いの始まりだという。確かに人間の精神活動には凄いものがあるのだが
もたらす害悪が半端無いくらい多い。肉体が主、精神が従、理想の仕事は農耕であるというのが大観和尚の考えである。
映画 新 動く標的
探偵が土地の有力者の利権をめぐる策謀に巻き込まれてゆくというアウトラインはジャック・ニコルソンのチャイナタウン
と同じだがこちらは色男のポール・ニューマンだ。南部の警察はしつこく嫌がらせをするし挙句には容疑者と探偵もろとも殺そうと
する。この映画のなかで有効だったのは暴力と拷問だけだったというのは寒々とする印象だ。探偵は危ない目に遭いながらも
危険な方危険な方へと駒を進めてゆく。自己中、スリルを求める、嘘つきというのは女にモテる秘訣のような属性だがこれに
ニューマンのルックスが加わると大変なことになる。次から次へと女が寄ってきてニューマンも断るのが一苦労なのだった。
映画 フラッド
町長に仕返し?耳毛?エレミア書を諳んじる強盗?変わった発想の映画だ。強盗団が現金輸送車を襲う。その後は
お決まりの展開だがどんでん返しがある。現金輸送サービスの助手が結局主人公で最後まで生き残る。実写の映像と
してはかなりの物と思った。とんでもないお金がかかっていそう。
トランスコンダクタンスアンプで作ったアンプはディスクリートより音が良いかもしれない。そう思えることが何度かあった
のである。DIPのパッケージが入手できたのでミニアンプを製作する。
組んでみると静かに発振しうんともすんとも言わない。こういう発振は止めることは極めて難しい。
NJM13600が駄目ならディスクリートにするしかない。
映画 リトル・ミス・サンシャイン
祖父を含めて五人の家族に何故か伯父が加わりワーゲンのミニバンに乗りコンテスト会場に向かう。プルースト研究の
第一人者だった伯父は無職になり実存モード、兄はパイロットになるためになぜか完黙しているという超弩級の実存モード、
父は取引が成立せず旅行中に実存モードになる。実存旅行だ。ワーゲンも半クラッチが使えない状態になり実存モードで
運用することになる。母と娘は日常モード祖父はクスリとセックスを楽しむ破滅モードだ。この歳だと破滅も極楽往生も変わりが
ない。案の定祖父はモーテルで死んでいた。
リトル・ミス・サンシャインに出場した娘をみんなでサポートした結果、コンテストは混乱しとうとう家族は警察に連行される。
お咎めは無かったが以後コンテストに出場禁止の処分となる。
目の前の危機に必死で対処しているとわりと実存モードから抜けられるようだ。
映画 ネコナデ
新人研修とリストラの現場(結構修羅場なのだが)にかぶせて捨て猫を家族に内緒で飼っている情景を描くという少々
風変わりな作品だ。人事担当の鬼塚は捨て猫を安易に拾うんじゃないと若いカップルに説教したかと思えば、娘の
懇願を猫が飼いたいのだと早とちりするくらい精神が不安定だったのだがそれは仕事のプレッシャーによるものだろう。
鬼塚は新人研修用のウィークリーマンションが一つ余ったのを利用して猫を飼い始める。キャットフードを用意したり、
獣医にみせたりして猫ライフを満喫する。挙句の果てには社で開発したロボットで猫を監視するようになる。
リストラ計画も完了し新人研修も終わりそれを機に鬼塚は辞表を提出する。猫を抱いて我が家に入ろうとする場面で
この映画は終わる。猫にとってはハッピーエンド。入れこむ対象が女なら家庭は壊れるがこの場合は大丈夫だ。
映画 南から来た女
成功しセビリアにオフィスを構える美容外科医が学会に招聘されブエノスアイレスで講演する。孫も生まれようかという
初老の男だが、案内の若い女と不倫の関係になる。スペインの富裕層の生活はまるでアメリカ人そっくりで、アルゼンチン
を見下しているのだが何かが足りない。形だけ模倣した空っぽというべきか。一方アルゼンチンは経済が崩壊し治安も悪い
状況だが挿入されるシーンでは文化のレベルの高さを誇示しているかのようだ。バーテンダーのピアノ演奏には驚いた。
結局妻を選んだ男は映画卒業のように花嫁を強奪するわけにはいかなかったのである(妄想で終わる)。元々が旧教で
がちがちの善男善女なのだから仕方がない。
映画 モンタナの風に抱かれて
自分の直感と行動力に自信があり人の意見を聞かない女が主人公だ。夫と娘がいてニューヨークで雑誌の編集長職を
こなしている。ある日娘が乗馬中の事故で片脚を失い愛馬ピルグリムも重症を負う。ここで女が馬の安楽死を拒否したこと
からややこしい展開になってゆく。娘は不運に挫けてひねくれてゆくしピルグリムも人を寄せ付けないクレイジーホースに
なっていた。女は調教の名人を見つけ助けを懇願するが断られる。ここからがこの女の真骨頂で娘と馬を連れてモンタナに
突撃する。しかしモンタナに住むトムという男は本物だった。牧場の遠景のショットは本当に美しいし、自然の中で馬を調教
する様は名人芸だ。人間に対してもいつの間にか荒んだ心を癒していく力がある。ロバート・レッドフォードはいい年になって
いたがアメリカにはこんなにカッコいい男がいるのかと衝撃を受けた。心がカサカサのこのニューヨーク女もとうとう恋に落ちて
じまうのである。
ニューヨーカーの好きな皮肉、美術館、シアター、レストランが感覚を麻痺させるものだということがなんとなくではあるが
わかる。ただし住む人間が本物でなければ田舎はもっとひどいところになるというのも真実だ。
FE103 Solを導入
MOS FET ZDRアンプで鳴らしている。ものすごい解像度だがEと比べると滑らかな感じがする。
映画 パルプ・フィクション
二流〜ゲスの人間しか出てこないと思えば観るのが楽だ。ショートストーリーのオムニバス形式だがそれぞれ
ちょっとづつ関連している。一番ゲスだったのはエゼキエル書二十五章十七節を暗唱しながら相手を撃ち殺した三下
だ。と思ったらその男は啓示を受けて改心し最後にレストランで相当立派な行いをする。映画はここで終わるがその
後にトラボルタが殺されて、又いろいろあってブルース・ウィリスがチョッパーで恋人と逃げる場面がある。ここが
時系列の最終か。ちょっと無限連鎖があるように感じたが精査したところ時系列の矛盾は無いと思う。
追われる者が追うものを屠ったり、拷問の立場が逆転したりするのが少し痛快に感じたがほとんどがハプニングの
連続で出来ているような映画である。
映画 ギルバート・グレイブ
アイオワの田舎が舞台のちょっとくすんだストーリー。出てくる人物がみな中途半端で突き抜けたところが無いのでモンタナの
風に抱かれてのようなマジックは起こらない。現実に限りなく近い話なのかもしれないがドキュメンタリーのような問題提起も有る
ではなく成り行きのまま進んでゆく。弟の十八歳の誕生日がクライマックスだが感動はない。福祉の助けも何にもなく一家は崩壊し家族
はそれぞれ独立するか放浪するかしかなくなった。全焼させた家は再建したのかギルバートは一年間どうしてたのか触れられて
いなかったのが少し気になる。
フローベール ボヴァリー夫人
冒頭はシャルル・ボヴァリーの生い立ちだがあっという間に田舎の開業医になり、若い美女エンマの父の骨折を治療
した縁でエンマを後妻にもらうことになる。頻繁に往診に通うなどシャルルに少々下心が無かったとは言えないが年上の
元妻が憤死したあとに喪が開けてから結婚したので周りがどうこういうわけでもない。問題はエンマの性癖にある。
結婚後はなんでもよくこなす開業医の妻としてシャルルに仕えていたが姑のしつこい攻撃もありシャルルへの愛情が
ゼロになってしまう。そこへ偶々だがシャルル夫婦はダンデルヴェリエ侯爵邸にお呼ばれすることになる。
そこで見たものは爛れたような上流階級の生活だが若いエンマはたちまちその虜になるのだった。憧れのパリの生活の
妄想が日に日に膨らんでゆく。実存主義的専業主婦だ。
「彼女を現在取り巻いているもの、退屈な田舎、ばか者ぞろいの町の人びと、単調な生活などはたまたま自分が捕らわ
れた偶然であるに過ぎない。(一部改変)」
こう思っているのだからもはや彼女の暴走を誰も止められない。
エンマが見る世界の描写はエリオットの詩のような雰囲気があり何か幻でも見ているような気分にさせられるのである。
このへんの読み応えは素晴らしいしやはり名作といわれるだけのものがある。
5月下旬にはこのようになる。
映画 僕らのワンダフルデイズ (2009)
自分が癌の末期であると知った53歳の男(竹中直人)が実存モードに入り、昔の仲間とバンドを再結成してコンテストに挑む。
夢への挑戦と時間切れを狙ったいつもの手である。やはり時間を持て余すと精神的に大変だ。この男にはきれいな妻(浅田美代子)
と大きくなった子が二人がいて持ち家もある。これで末期を迎えるなら願っても無い条件なのではないだろうか。
バンドの練習はとんとん拍子で進みハプニングも起こるが無事に出場を果たす。最後はどんでん返しもあった。
スポンサーのトヨタがマークX Zioを提供していて映像として残った。白いボディはなかなか美しく、デザイン、エンジン
とも今のアベンシスよりいいように思える。
映画 影なき男 Shoot to kill (1988)
サンフランシスコでの宝石商強盗殺人事件の犯人を追うFBI捜査官が今回の主人公。米国カナダ国境をトレッキング
で越えようとする犯人を捜査官と山岳ガイドの二人が追う。難易度の高いコースだ。美しい自然を楽しむトレッキングも犯罪
に対するセキュリティーのことを考えると生死は運頼みだ。犯罪者が一人紛れ込むことによって女性ガイド以外は谷底に落
とされて死ぬ。犯人と人質の女性ガイドはカナダに逃走するが捜査官に追い詰められる。
エンターテイメント性が強いわりと古典的とも言える映画だ。黒人FBI捜査官はバリバリの手腕を発揮するが、純なところも
持ちあわせていてそのギャップが楽しめた。
Stevie Wonder Innervisions (1973)
冒頭のToo Highという曲は脳にクラクラっとくるドラッグのような音楽だ。最近朝クルマで聴いている。転調とフェイズシフター
だけでやっているのだからすごい。僕が19のころNHK
FMの洋楽番組をカセットテープに録って聴いていたがピンとこなかった
曲だ。今のシステムで聴くと何から何まで極上のもので出来ているアルバムだということがわかる。
世界にある至高のものの一つがこれだと思う。
5月末に猛暑が来てしまったがそのせいで花も開いた。
映画 EUREKA (2000)
3時間を超える長さの前衛映画だった。しかもレビューの評価はあまり高くない。それでも見終わってしばらくするとこの
映画のテーマが見えるような気がした。これは正義感の希薄な世界を描いた映画なのではないか。巻き戻して検証して
みよう。
冒頭のバスジャック犯人の言葉がそうだ。「みんないつかは死にますから。(何人殺しても同じでしょ。)」警察にも正義感は
ないような印象を受ける。とても粗雑な事件の解決の仕方だった。主人公のバス運転手(役所広司)が「生き残ったことがそげん
悪かとか。」とつぶやいたり「他人のためだけに生きることができるだろうか。」と問いかけたりするのだが、こういうのは表現
としては底が浅い。さて主人公は手紙を残して家出をする。二年後に帰ってきて土木作業員として社会に復帰するが、周りとは
うまくゆかず又プチ家出をする。
生き残った兄妹の一家は崩壊したが死んだ父の保険金で虚無的に暮らしていた。そこに主人公が合流し、挙句の果て
に中古で買ったバスでみんなで放浪旅行に出る。この実存旅行にいとこの大学生が加わる。この人は日常モードだがバス旅行
が拉致事件にならないための小道具のように見える。
通り魔事件が3件ほど起こるが結局犯人は正義感を喪失した梢(宮崎あおい)の兄ということが明らかになる。正義感の無い
主人公は現場を押さえるが責めもせず兄を警察署に出頭させる。いとこもぶん殴って追い出す。バスは阿蘇山の大観峰に到着
し梢は日常モードに戻り映画は終結する。耳慣れない音楽がかかっていたがこれがジム・オルークのEurekaか。
このあといっしょに帰ろうと云った主人公は梢と暮らすのか、博多にゆくのか。元妻に電話をかけて切ったところを見ると実存
モードのまままたどこかに行くのだろう。
主人公の人格の設定が少々不明瞭なようだ。酒が弱く無口で真面目という印象もあるが切れやすく暴力的で人のことを考えて
行動しないという面もある。そのせいでなかなか共感ができない。
映画 ユアン少年と小さな英雄
題名からてっきりイランあたりの映画かと思っていたが見てみると大英帝国のエディンバラで起こった話だった。貧しい家庭
の少年ユアンは可愛がっているテリア犬のことでいろいろと町の資本家から嫌がらせを受ける。そこは途上国と違って節度のある
嫌がらせなのですんでのところで切り抜けたりするし大人にはユーモアもある。圧巻なのは数十キロ離れた町からエディンバラまで
犬がトレッキングのような旅をするシーンだ。動物にとってもトレッキングは生きるための重要な行動なのだ。
最後は少年の機転により犬は殺処分を逃れ名誉市民になるという実話らしい。儒教圏である日本のハチ公物語と比べるとスト
ーリーとして完成されているし、思想的には騎士道乃至ヒューマニズムではないかと思った。
自尊心
人は人生の繰り返しと退屈とを背負うてゆくには、他に勝れたところを自己のうちに見出さずには出来ない生物のように観察
される。(気違い部落周游記行第45節)
これはちょっと奥深いものがある。長い時間を退屈しないため北シベリアで暮らす遊牧民が音楽プレイヤーでビートルズを聴い
ているように我々もさらに広い選択肢の中から時間をつぶすものを選んでいるわけである。ところがこの村には娯楽という物は殆
ど無く、楽しみといえば相手をつかまえて噂話、自慢話をすることくらいなのである。
この先生もおばばに捕まり自慢話をされてこの考察が生まれたのである。他人より優れていることを確認することが最高の娯楽
になっているということだ。
映画 東京大学物語
トントン拍子で東京大学に合格したヒロインは同じ高校の彼氏を一途に思っていたが、彼氏は受験前日にホテルで
他の女とSEXしたせいで不合格、私大に進む。彼氏は翌年も東大を受験するために受験勉強を続けるが他の女と同棲
し彼女を傷つける。翌年の東大入試の日彼女はスキー合コンで遭難死したが彼氏は合格し卒業後エリート官僚になる。
おおまかな筋をたどるとなんとまあちぐはぐなストーリーだなと思える。アスペルガー気味の女のほうが男の秀才より
東大に入りやすいという話なのかな。
NHK BS 世界自転車探検部 ペルー
サンファンからクスコに至る750kmを行く。ペルー、チリの西岸は極端な乾燥地帯だ。サンファンはパキスタン沿岸部
と同じ光景だった。100kmほど進むとナスカに到達するがこの辺も砂漠地帯だ。標高2800mまで登ると灌木が見られる
ようになる。パミール高原と同じ光景だ。ここにはVillatanboという急造されたような町があった。ここに部員茂山宗彦は宿泊
する。標高4390mのコンドルセンカ峠を超えると草原地帯が広がる。柔らかい毛を持つビクーニャが生息しているが数が
激減したという。ココシリで起こったのと同じことがここも起こったのだろう。今は国立公園になっている。進むにつれ湖も見
えるようになる。とうとうクスコに到着する。ここは電気が煌々と輝く都会だがこの途中に桃源郷のような土地がいっぱいある
ように思えた。そこに自活している民もいたがケチャ語ではなくスペイン語を話していた。
ZDRパワーアンプ
放熱孔を開けて熱収縮チューブを買ってくればもうすこしで完成しそうだ。でもあせることはない。
映画 恋に落ちたシェークスピア
史実ではないような茶化したスタイルの映画のような気がする。シェイクスピアもロミオとジュリエットの戯曲も実在
するが本当にこんなのだったのかと思いながら観た。これだとシェイクスピアにはまるで才能がないみたいだ。美人の
恋人と金持ちの恋敵という構図もムーランルージュと同じで若年層の観客に媚びた設定だ。シェイクスピアは最後まで
同じノリで突っ走り楽しい思いもたくさんして別れも悲劇には見えないのだった。衣装と音楽にはまともにお金がかけられ
ていると思った。
映画 脱出 原題 Deliverance 米 1972
ダムが作られ開発されようとする南部の川をカヌーで下ろうとする男たち。車で中流域の荒れ果てた村に乗り込むが
何とも奇妙な住民がいる。男たちはガソリンを入れてもらい車の陸送を頼む。エントリーポイントから川に入り下流の町を
目指す。楽しい川下りのはずが地元民に猟銃で脅され一人がレイプされる。何とも恐ろしいところだが、男たちは弓矢で対抗
し殺し合いに。結局地元民を二人殺し、こちらも一人殺された。
一般市民が無法地帯で事件に巻き込まれる話だが地元警察も厳しくは追及せずなんとか一件落着したが、数年後ダム
に死体が浮き上がったようなそうでないような結末になっている。
ジョージア州のアパラチアン山系チャトゥーガ川でロケが行われた。
映画 美しき運命の傷跡
56歳になりました風に書くと、フレデリックはソルボンヌ大学教授職、ギリシャ古典文学の講座を持つ。妻と大学生の娘
がいて市内の一戸建てに住んでいる。教え子のアンヌと不倫関係にあったが解消しようとして失敗。家に押しかけられるが
発覚を恐れたフレデリックは、旅先で交通事故死する。自殺と思われる。
ピエールはカメラマン。ソフィーと結婚し一女をもうけている。モデルとの不倫がソフィーにばれ家を追い出されるが、モデル
にも後出しじゃんけんのようなことを言われ逃げられた。現在家から締め出しをくらっている。
アンヌとソフィーの父は学校の先生だったが教え子が裸になっているところにいっしょに居るのを見られて同性愛の嫌疑
をかけられ、刑務所に送られる。刑務所を出所するときにかっこうの託卵を目撃する。家に帰ると表札は消され鍵が替えられ
ていた。中に入ると妻が半狂乱になり娘との面会を拒む。妻は殴り飛ばされて半身不随の重症を負うのだが父はそのまま飛び
降り自殺をする。
この映画のテーマは偶然の死には意味が無く、宿命の死には意味があるといったわりと浅薄な感じのものだし、託卵との
関係も不明である。三姉妹のうち二人が託卵だったのかもしれない。宿命の死を遂げたのは男ばかりである。
映画 トム・ホーン
西部劇だけど音楽はいいし善悪の基準もステレオタイプのものではなかった。
ジェロニモを生け捕りにした英雄トム・ホーンはワイオミング州に流れ着いて地元の組合から牛泥棒問題の解決を依頼される。
ホテル住まいをしながら、牧場の手伝いと特命保安官のようなことをする。牛泥棒を追いかけて射殺したり、出て行くように勧告
し抵抗すると射殺する。この死刑執行まで一人で行うやりかたには違和感があるが、必ず向こうが発砲してからこちらも発砲する
のである。
ふつうの西部劇ではインディアンが悪、白人が善というふうに描かれるが、この映画では白人の牛泥棒が悪、白人の開拓民が善
というふうに始まる。しかし最後は開拓民の組合が巨悪であるのが明らかになる。八百長をして証拠を隠滅して歴史を改竄するという
いつもの権力者のパターンである。
だから後半部は陰謀に嵌ってゆくトム・ホーンが描かれるが、雰囲気を悟ったトムには覚悟ができているようだった。最後は
絞首刑にされる。
民主主義の名のもとにこういう茶番をやってきたのかアメリカは、という映画である。アカデミー賞は取れない映画だ。
映画 ラスベガスをぶっつぶせ
成績優秀なマサチューセッツ工科大学の4年生が進学のための奨学金を捻出するために計算力を活かしカジノに挑む。
カジノ側は生体認証を用いて荒らしに対抗するという話。
しかしお金があればメディカルスクールに行けばよいし無ければ就職すればいいのではないだろうか。こういうシンプル
な生き方が良いのではと思うが、面倒なことを考えるものだ。結局対応が万全なカジノ側が勝つが、この経験をエッセイに
書いて奨学金を得るという都合の良すぎる話だった。
実話らしいがこれにはちょっと賛同できなかった。下手をすれば退学もありえたし殺される危険もあったのである。
映画 バトルクリークブロー
格闘技に歓声を上げて熱中する観客の軽さに感銘を受けた。こういう何も考えていないっぽいのもいい。ジャッキー・チェン
の飛び跳ねる姿はドラゴンボールの絵とよく似ていた。この映画のほうが元ネタである。
邪悪なものも出てくるが、倒して終わりである。裁くなどという面倒なことはない。この単純さも何か新鮮だ。
山田太一 沿線地図 (1979)
有料放送を全15話録画できたのでゆっくり鑑賞した。金曜ドラマでの放映時は主人公たちと同世代だったわけだが
今は父親たちと同世代になって見るわけである。二子玉川を電車が走ってゆく姿がもの悲しい。
片やエリート銀行マンの家庭片や街の電器店の家庭で育った高校3年の男女の駆け落ちの物語だ。両方とも設定が
一人っ子だ。あの時代だと3人位でもおかしくはない。兄弟がいると違った展開になると思う。
出会いは女のほうが学園祭に押しかけていって交際が始まった。男の方も優等生ながら親や先生たちにどこかしら反発
していたところがある。デートを重ねるうちに女に感化されたということになる。女は成績優秀だが親に隠れてディスコに行っ
たり男のバイクに乗せてもらったりしていたが、そういう男たちに飽きたあなたのような男が新鮮に感じたと告白する。
要するに最初は自己中、スリルを求める、嘘つきの不良が好きだったわけで、これは黄金律のようなもので女の本性だ。
なぜ反対方向に向かったかが謎である。それに不良は大抵つるんでいるししつこい。そこでまた一悶着あるだろう。このドラマ
にも不良という設定の男が一人出てくるが真面目でお人好し、二人を助ける役割を果たす。
第3話で早くも駆け落ちした。置き手紙を読んだ時の親の心情が今はよくわかる。
あじさいもこの時期にやっと咲く。花としては遅い方だ。春を待ちきれないかのように咲く花もあるのに。
(つづく)