2014年の音楽生活7
9月も半ば、エゴノキが実をつけはじめる。
ミニヘッドホンアンプを作ることにした。
入力抵抗220Ωで聴いてみるとどうも歪っぽいので1kΩに戻した。
いつもの散歩で市販の中級機Fiio E11と直接比較してみた。やはり差があった。静かで、スムースで、パワフル
に感じられる。バイポーラの最高峰と言っても差し支えなさそうだ。
#8759
ワンクリックで4枚上がる珍しい一品。解くのはわりと難しかった。
男はつらいよ 拝啓 車寅次郎様 (1994)
枕の寸劇では旧高田市の武者行列で寅次郎が易断本を売ろうとしてトラブルになる。その後何故か市内で小林幸子
といくつか言葉を交わす。
諏訪博邸では満男がサラリーマンになっていていつもの朝食の場面から始まる。満男は毎回ろくに食べないで出て
ゆくのだが今回もそうだった。帰ってきた寅次郎とみんなで晩餐を囲むが、翌日寅次郎は琵琶湖へ旅立つ。琵琶湖の
辺りを逍遥する寅次郎は女性のアマチュア写真家(かたせ梨乃)と知り合いになり同宿することになる。ハッセルブラッド
とボルボのワゴンという道具立てでお金持ちの奥さんらしい。一方満男の方も先輩に招待され琵琶湖の近くの町(長浜)
に旅行する。
先輩の家におじゃました満男は家にいた妹(牧瀬里穂)と市内見物するがわりと仲良くなる。そこで寅さんとばったり
会うというのはお約束の展開だが、そのまま寅さんは姿を消す。先輩の相談とは妹と一緒になってくれというものだっだが
返事を保留したまま満男は東京に帰る。結構美女なので満男も迷うところだ。だがこの話はすぐボシャる。
寅と満男は鎌倉へドライブし奥さんの家を訪ねる。閑静な住宅地の一戸建てに暮らす奥さんはまるで別世界の人
だった。身の程を知る寅次郎は車から奥さんの姿を眺めてから何故か江ノ電で去ってゆくのである。
今回印象的だったのは寅次郎がなんとなくだが創業家の若旦那として遇されていることだ。大阪の船場物の話だと
寅次郎はすでに勘当されて当然、さくらの旦那が跡取りになっているというところだろう。ここにはあいまいなゆるさが
ある。
山田太一ドラマ 秘密
休日になると仏像の写真を撮りに北海道から京都へと出かけてゆく税務署員の夫。趣味に没頭する夫をもてあます
妻。ロックを聴いて楽しんでいる現代っ子の娘の3人家族の話だ。そこへ一本の迷惑電話がかかってくる。岸辺のアルバム
の始まりと似ている。人妻はその誘いに乗り、逆に電話をかけた男を捕まえてみると、留萌から札幌へ働きに出てきた18
の青年(三浦友和)だった。お説教してその場は別れるが、後になってその男を呼び出してデートする。その日は青年が
札幌にいる最後の日だった。いよいよお別れというときに人妻は青年を公園の木陰に連れてゆき無理やりキスをする。
青年は果たして嬉しかったのだろうか。この短いドラマでは気持ち悪い感じしか伝わってこなかった。
山田太一ドラマ 最後の一日
北海道の田舎の町の中学教師を20数年勤めた初老の女が今日退職する。どうも無理やり辞めさせられるらしい。朝礼で
挨拶を述べて荷物をまとめて下宿へ帰ってゆく。その夜は送別会があり、元女教師はみんなにお酌をして回る。彼女が
辞めさせられたことに不満を抱く若い教師が校長を非難するが、校長はふてぶてしくもその教師にお酌をさせ、元女教師に
は異存は無かろうと無理やり同意させる。
地元には元教師を慕ってくる青年がいてその日も泊まりに来ていた。実はそのことが噂になっていて辞めざるを得なくなった
らしい。もう一人元教師を慕っている若い女(坂口良子)がその夜訪ねてきた。退職のはなむけにとエプロンを買ってきてくれた
が少々派手なデザインだったようだ。青年は昔彼女に告白してふられているので双方気まずく感じていたが、最後に女が
噂の原因が青年にあると本人の前で指摘して帰っていった。
そのあと青年と元教師はウイスキーを飲んで、元教師は荒れに荒れて夜中の町を大声で歌いながら校長の家まで押しか
けてしまう。
さて結末はというと元教師は地元に残り、若い女は札幌に就職、青年も札幌に帰ってゆくというものだった。その後どう
なったかはわからない。
松本清張一周忌特別企画ドラマ 或る「小倉日記」伝 (1993年8月)
松本清張のなかなか味のある芥川賞受賞作をドラマ化したもので90分の作品である。美人の母(松坂慶子)をもつ
障害者の息子(筒井道隆)が、地元の病院に司書としてやとってもらい、大好きな本を読んでいるうちに森鴎外の小倉時代
の足跡を調査して資料としてまとめようと思い立つ。周りが協力してくれてあと一歩というところまで行く話だ。
単なる社会派小説を超えて幸福論まで包含する筆力が清張にはある。何とか生活できるほどの家作をもち息子と
幸せに暮らすにはどうすればよいか考える母だが、足と言葉が不自由な息子は就職しても職場から追い出されてしまう。
友人の尽力によって地元の病院長の蔵書の整理の仕事につくのだが、そこで上記の着想を得る。それを周りの人も
オリジナルな研究と認めてくれるようになってゆく。鴎外の弟が手紙をよこしたころが幸せの絶頂だろう。あとは研究に
付き添ってくれている美人の看護婦(国生さゆり)が嫁になってくれればと母は思ったのだがそこから状況は暗転してゆく。
ここは普通の幸せを望むのではなく、「幸せを得られなかった時は、やりたいことをやるしかない。」でゆくべきだったろう。
息子の方はよくわかっていたようだ。小説では清張の独特のリアリズムで皮肉なエンディングを迎えるがドラマでは少々
脚色が加えられていたようだ。
ドラマ スティル ライフ (1993)
池澤夏樹の芥川受賞作をドラマ化したものを見た。染色工場で知り合ったわけありの二人の女性が短期間だが
共同生活をしてお金を稼ぐという話。小説とは性別が変えてあるようだ。小説をこうして映像に展開すると概要をつかみやす
くなる代わりにくだらないものになってしまう可能性もある。主人公のマリエ(南果歩)、相手の霧子(田中裕子)の演技は
とてもいいのだが設定が少年少女小説?というくらいに陳腐なのだった。二人をとりまく登場人物がことごとく俗物で
主人公はそれらをばっさり切り捨てるのだが、主人公だってじゅうぶん俗物に思える。俗物が寄ってくるのは俗物の
証拠なのだ。
会話に出てくるチェレンコフ光のくだりはもし時系列がカミオカンデのニュースの後ならちょっとどうかと思う。
映画 男はつらいよ 寅次郎紅の花 (1995)
枕の寸劇は美作の駅舎風景と祭りのシンプルなもの。街なかで寅が酔ってふらふらしたり杖を使ったりしている。
東京では柴又帝釈天の風景から始まりとらやへとつながる。どうやら寅次郎は神戸の震災後音信不通になっている
らしい。
二回ご無沙汰していた泉が満男を訪ねてくる。二人はまだ続いているのかと思ったら医者と見合いして結婚する
らしい。そのことを満男に話しに来たのだ。黙ってさっさと結婚すればいいのにと誰しも思うであろう。満男がここで
プロポーズしても母を優先する娘なので満男のことは考えていないはずである。
津山のホテルで結婚式を挙げる泉。いやこれは花嫁姿が美しい。そこへ満男が車で現れ花嫁の乗ったタクシーを
押し戻す。結婚式は中止になり破談となる。
逃亡し奄美大島に現れる満男。そこにリリイ(浅丘ルリ子)が居合わせる。自殺の雰囲気を漂わせている満男を心配して
リリイはカレーをおごり家に泊めてやる。さすが姉御肌だ。なんとそこには寅次郎が一ヶ月前から同棲しているというショッキ
ングな展開だ。こんな美人とお金の心配もなく隠居生活を送るというのは夢の様な話だ。
きっと寅次郎は震災で死んで死ぬ前に観た夢がこの映画か。だとしたらとてもシュールな映画を山田洋次監督は撮った
ことになる。それとも満男が死んでそのときに観た夢か。どちらもありうる。二人とも死んで天国に行った話か。
最後は満男も寅さんもいない諏訪邸の静かなお正月風景だ。あからさまにはそうしていないが読み替えると成立するよう
に作られている。
映画 セブン・イヤーズ・イン・チベット
(1997)
ブラッド・ピット主演の実話に基づく映画。主題は国家の威信をかけたヒマラヤ登山とかうまくゆかない夫婦関係といった
ものなのだが、運命のいたずらでオーストリア人の主人公はチベットに賓客として住むことになる。そこで見聞きしたことは
当時鎖国状態だったチベットの中で起こっていたことを世界に知らせる重要な記録となった。若き日のダライ・ラマや迫撃砲
と機関銃で迫り来る人民解放軍の様子が映像化されている。なかなかリアルだと思う。
NHK
BSでは放映できそうにない映画の一つだ。
映画 キャノンボール (1981)
ギャグが漫画レベルなので何も考えずに見ることのできる映画だ。息抜きになるし映像は結構楽しめる。ランボルギーニ
カウンタックをパトカーが追跡する場面があったがV8 5リッターのアメ車ではやはり追いつけない。
映画 レス・ザン・ゼロ (1989)
ロサンゼルス20歳になりました風に書くと、
ブレア ハイスクール卒業後東海岸の大学に進学し猛勉強中。クリスマス休暇に地元に帰ってきて旧友と会う。
クレイ ブレアの元カノでモデルの仕事をしている。今の彼はジュリアン。
ジュリアン 裕福な家庭に育ったが、父親と不仲で家を追い出されている。クラブ経営にも失敗し薬漬けで借金を
抱えている。
この三人は親友でパーティーで再会し仲直りするがクレイがジュリアンの窮状をブレアに相談する。しかし友人のアドバイス
くらいではこの問題には歯がたたない。結局クレイとブレアはお金を工面してジュリアンを連れ出すしかないと覚悟して決行
するのだが、ジュリアンは車の中で死亡する。自分でオーバードーズしたのだ。
ブレアとクレイはショックとやり切れなさで参ってしまっただろう。
この映画はジュリアンが堕ちてゆくところを克明に描いているが三人が仲良しだった頃のことが省略されているので
その分感情移入しにくかったという欠点がある。
結局NFBもD−NFBも良い結果が得られなかった。
計画変更し大きめの出力用トランジスタを用い熱結合させる。
平野啓一郎 空白を満たしなさい (2012)
自分を検屍した医者の外来を受診して復生診断書を書いてもらうという発想はなかなかシュールでカフカや安部公房のような
展開を期待するが、この小説は不条理が顔を出すことが少なくごく日常的に話は進行する。
葬儀を終えた死者が帰ってくるというファンタジー的な素材も、この小説の場合は秘蹟の類として扱われており社会も科学界
も何か気まずいものでも見た感じで受け入れている。そういうぎくしゃくした雰囲気を皮肉たっぷりに描けば安部公房風になる
のになあと思うがやはりそうではない。
家庭を持ったサラリーマンがローンを抱えて過労死する。そして復生後に自分は殺されたのだと思い込み犯人を追いかける
という展開になるが結局自殺だったという証拠がだんだん集まってくる。そういう状況はなんとも安部公房的なのだが話としては
カウンセリングや幸福論の方に向かってゆくのである。
オリジナリティはかなり高いと思う。自然の描写もあるが日本文学的な味わいは少ない。
映画 ぱいかじ南海作戦 (2012)
主人公の会社は倒産、離婚もしてカバンひとつでどこか南の島へ旅立つという設定だが、スッキリした感じとウキウキする
感じがなんだか伝わってくる。普通の喜劇とも社会派映画とも違う突き抜けた感じがする映画だ。原作者が椎名誠というのは
さもありなんと思った。南の島で毎日同じような暮らしをするというのも慣れてしまえばやはり時間を持て余すことになる。主人公
はいかだを作ってさらに南の国へ旅立って行くのだった。
映画 男はつらいよ ハイビスカスの花 特別編 (1997)
主演者の死後CGと古いフィルムの使い回しで制作された一編。若いころの渥美清はひがみっぽい・・・かな。ストーリーは
巡業先で病気になったリリイを寅さんが見舞いに行くというものだ。それにしてもこの映画は愛する人の許へ、居ても立っても
いられなくて飛んでゆく場面が多い。リリイから間接プロポーズのようなものがあったが寅さんは照れ隠しのような断り方をして
しまう。ほぼ一生独身が確定した瞬間である。
終わりまで観た結果ハイビスカスの花とあまり変わっていないのではと感じた。少々お金をかけたリバイバル再上映という
感じか。
映画 サラの鍵 (2010)
要するにビシー政権時代にフランス警察がパリ近郊に住むユダヤ人を1万数千人集めてアウシュビッツ送りにした結果、
生き延びたのがたった400人だったという史実に基づく映画だ。だからどう描いても陰惨さは免れない。
冒頭のサラと弟の天真爛漫に戯れるシーンが何ともあざとい。こんな幸せな家庭を破壊した憎むべきナチスドイツという
演出か。シナリオに基づく活劇映画ではないので、納戸に閉じ込められた弟を助けようとしたサラはちょっとづつへまを重ねて
弟は死んで発見される。両親もアウシュビッツで死んでいる。サラはフランス人の老夫婦に育てられるがニューヨークに出て
結婚し一子をもうける。幸せになるかと思ったら自殺してしまった。その時息子はまだ9歳だった。
息子は母の自殺も自分の出自も知らずに成長しイタリアで家庭を持って暮らしている。サラの消息を調べ記事にしようと
している主人公のアメリカ人女性ジャーナリストがとうとうフィレンツェまでやってきてその事実を息子に話してしまう。なんとも
頓珍漢な話なのである。言われたほうはたまったものではないだろう。
映画なので無理やりハッピーエンドにしていたが事実はどうだろうか。
山田太一ドラマ 旅の途中で (2002)
旅をしている元大学教授(山本學)が美人の人妻(竹下景子)に一目惚れして100万円で一日デートを申し込む。こんなこと
が可能かどうかというのがテーマである。まーたファウスト博士だ。
結局ぐうたらな夫を交えてのすったもんだの末、定休日にデートすることになる。白い高級セダンで渥美半島あたりをドライブ
する。途中で元教授は体調を崩し二人はタクシーで帰ることになる。こういった展開だった。ナンパした理由や背後の事情は適当
に設定した感じだ。
山田太一のドラマの登場人物は若い時には自分探しをし、年をとるとファウスト博士になるというのが通例である。どちらも
おすすめは出来ない。
金木犀の花が咲く。庭も人生も秋真っ盛りだ。
映画 アンノウン (2011)
久しぶりに映画らしい映画を観た。バイオテクノロジーの国際学会に招かれたハリス博士とその妻がベルリンの空港で
タクシーに乗る。その時不注意でトランクを空港に忘れてしまったのが発端だ。ホテルに妻を残し急いで空港に戻る博士だが
交通事故に逢い病院で四日間意識不明となる。なんとか回復してレセプションの会場に行ってみるとすでに身分証明書を持つ
見知らぬ自分がいた。そこから次々と起こることは用意周到で何らかの組織によるものに思える。アクションはド派手で面白い
し、すごいどんでん返しがある。冒頭のホテルに向かう夫妻の軽い会話にそれとなくそのことが出ていたが。
ホテルの爆破シーンだけ見ても日本映画では見たことがないくらいリアルでお金がかかっていると思えた。
映画 アルティメット (2004)
治安の崩壊した町を牛耳る武装化した集団をひっかき回す変な男が出てくる。軽業師のような逃げ足と武術の心得と天才的な
頭脳を持つが警察に逮捕される。妹は武装集団の囚われの身になる。それとは関係なく警察の方にも腕っこきのスペシャリスト
がいて一人でギャング団を壊滅させる大尉が出てくる。この二人を使って盗まれた中性子爆弾を取り返すというミッションが計画さ
れる。
治安の崩壊した町は封鎖されていて爆弾は武装集団の手にあり二人はそこに突入する。この辺までは斬新でスピード感も
あり良かったのだが、またミッション自体が180度反対を向いていた罠という設定も面白かったのだが、ハッピーエンドの結末は
どうもいただけなかった。陳腐さが顔を出している。
映画 マルコビッチの穴 (1999)
ある実在の俳優の意識に15分だけ入り込める穴がなぜだかある。それは永遠に生きる方法の一つでそれを利用して
何百年も生き延びている集団がいるのだが、それは背景の設定にすぎない。本題は以下のようになる。つまりその穴を偶然
に発見した男が、片思いの美女にそのことを話しビジネスにすることに成功するが、肉体を借りるという特性を利用して同性愛
や片思いが成就できたり、有名人になりすまして社会的に成功したりと目まぐるしく話が展開してゆく。最後は皮肉な結末を
迎えるが思ったほど悲惨にはならなかった。演出や音楽は芸術性の高いもので映画の特性を生かし切った傑作になっている。
安部公房(1924〜1993)が存命なら絶賛していたかも。
最近作りなおしたアンプ測定用の負荷抵抗。切り替え式になっている。
映画 マレーナ (2000)
シチリア島のとある町に住むマレーナ(モニカ・ベルッチ)はその美貌と性的魅力で町の男たちを魅了していたが、女性たち
の反応は微妙なものであった。ある日少年はマレーナの歩く姿を見てその性的な魅力の虜になる。自転車で追いかけては
マレーナの姿を瞼に焼き付け自慰にふけるのであった。一方マレーナは町の青年と結婚するが戦争が始まりその結果若くして
未亡人となる。予てからマレーナを狙っていた町の男たちは争奪戦を始めるが裁判沙汰を引き起こし自滅してゆく。漁夫の利
で中年の弁護士がマレーナを物にするが母親の反対で結婚には至らない。これらの状況を少年はゴシップ記者のごとくつぶさに
観察するのだが、覗きと下着泥棒にまでエスカレートしてゆく。それを知った父親は激怒して少年を部屋に閉じ込め、母親は
息子を悪魔祓いにすがって助けようとする。結局父親は男は一発やれば悩みは解消すると考え、息子を娼館に連れてゆく。
そこには売春婦に身を落としたマレーナがいたのである。少年はちゃっかりマレーナに筆下ろしをしてもらっている。
ちょっとこれはいただけないというか、都合が良すぎる話に思えた。喜劇が交じっている感じがする。その後の展開はシチリア
らしい旧弊に満ちたものであるが、少年は普通に成長し、戦死したはずの夫は帰ってくる。
マレーナは数奇な運命をたどったが、最後は夫と再会し町に戻ってきた。悲劇という程の物語にはなっていない。ストレートな
真実をいっぱい含んだ映画だと思う。幸福とは何かという答えも十分示されている。
DVD アンディー・ウォーホール 生と死
チェコ系の移民だったアンディー一家はピッツバーグで生計を立てて暮らしていた。父は早くに亡くなったがアンディーだけ
は地元の名門カーネギーメロン大学に行かせてもらっている。卒業後ニューヨークに出てきたアンディーはご存知のとおりの
大活躍をする。当時のアメリカ人のアイドルはミックジャガーとボブディランとアンディーウォーホ−ルだったらしい。
ワーカーホリックで富豪を目指し有名人とつきあいマザコンで同性愛者であるのがアンディー・ウォーホールである。幸福論
からはだいぶ遠いところにいる。事実晩年は恋人と別れて淋しい思いをしている。エイズが蔓延したころは精神的にも参っていた
らしい。最後は胆嚢の病気で入院しあっけなく亡くなっている。
マルコビッチの穴に出てくる15分という概念はアンディー・ウォーホールのテレビ番組から来ているようだ。
葛西善蔵 子をつれて 浮浪 哀しき父 おせい 湖畔手記 血を吐く
葛西善蔵を読んでみた。これらの掌編小説は全部同じトーンの私小説であり彼の一生を概観しているかのようだ。彼には
これらをひとつにまとめて傑作にするような筆力もないし、未知の世界に飛び込んでゆき取材するという才覚もないというのが
見て取れる。
創作に打ち込むのか生活のために働くかの選択を迫られるのは古今共通の問題のようだ。
映画 コフィー (1973)
明らかに娯楽アクション映画なのだが、黒人の政治参加、薬物問題が主題になっており、音楽もブラックミュージック
なので新しいジャンルの映画なのだろう。主人公は絶世の美女で職業は看護師、自警団に属しているらしい。思うところ
があって麻薬密売の元締めに接近しては殺してゆくのだが動機は私怨に近いものである。登場する人物、組織像などは
定型的なものでよくあるテレビドラマのようでもある。何の後ろ盾も権限もなく悪人と裏切り者を殺すのでこのあとどうなるの
だろうという疑問とともに終了した。
山田太一 丘の上の向日葵 (1993年4月)
半身不随だが頭脳明晰な男の子(筒井道隆)、ある程度の家作を持つ美人の母(島田陽子)とくれば松本清張の或る
「小倉日記」伝に対抗したものだなとピンと来る。違いはあちらでは母親が息子の幸せを願って失敗したのに対し、こちらでは
母親がよその家族を不幸に引きずり込もうとして失敗しているところにある。人間は不幸の良導体なので冷たいようだが
対策はひたすら絶縁するしかない。島田陽子の方は相手に息子との血縁関係を認めさせた上で色仕掛けで相手との不倫
関係に持ち込むところまで成功した。あとは事実がばれれば相手の家族は崩壊する。ドラマでは息子の機転によりすぐ絶縁
することに成功した。しかしこれは現実ではここまでうまくやるのは無理だろうと思う。
不幸は世代間で連鎖するし、他者間でも融着という現象がある。どちらも絶縁が対策としてはいいようだ。
映画 観察
永遠に君を見つめて (2007)
丘のある町に引っ越してきた小学生の茂樹は高台に住む弥生という美少女を望遠鏡で覗き見する喜びを知り、何故かそれを
ライフワークにしてしまったという悲しい話だ。茂樹一家の引っ越しによりいったんは途絶えたが、探偵並みの調査力で彼女
(緒川たまき)の住む場所を突き止め自分はその町で就職して観察を続ける。長身でわりとハンサムな茂樹は地元の女に
言い寄られて世帯を持つが、彼女も主治医に告白され世帯を持つことになる。お互いそれでいいのだろう。告白したら終わり
という関係なのだ。やがて妻と娘を残して彼女の夫は病死するが、茂樹もその性癖がばれて離婚になる。眼精疲労で眼科を
受診した日に茂樹のところに荷物が届く。中には彼女の自殺の理由が記された日記と小学生の時の茂樹が出した手紙が入って
いた。
美人映画だが芸術性もあるという作品に仕上がっている。緒川たまきに心を持って行かれた男は数あまた居るに違いない。
映画 マチェーテ(2010)
これはちょっとやりすぎと思える映画だった。メキシコのネイティブインディアンと思える容貌の主人公マチェーテがひたすら
悪を殺しまくる。殺す理由は身内を殺されたから、相手が殺しに来たからという理由と相手が悪だからという理由もあるが一般的
にはそれで正当化できるわけでもない。神父を磔刑にしたり悪の親玉にハラキリをさせたりとやりたいほうだいである。不法移民
がテーマの映画だが、観てちょっと後悔した。
山田太一 チロルの挽歌 (1992)
NHKで放映された90分2回もののドラマである。テーマは妻の駆け落ちだが芦別市の計画するテーマパークが背景に出て
くる。鉄道会社の社員(高倉健)が人口減に苦しむ芦別市に開発担当として単身赴任する。炭鉱の閉鎖などにより市の人口は
7万人から2万人に減少していた。市長は炭鉱の跡地を利用してスイス風のリゾートチロアンワールドを作ろうとしている。実際には
赤毛のアン人気にあやかろうとしたカナディアンワールド公園が作られたが赤字で破綻している。赴任してみるとホテルの目と鼻
の先に駆け落ちした夫婦(杉浦直樹と大原麗子)が洋品店を営んでいた。
修羅場が予想される展開だがなんとも絶妙な設定である。が、夏目漱石の門と似てなくもない。妻が出奔した理由が夫の仕事
中毒で会話がなかったことだと何度も出てくる。こういうテーマがこの作者のドラマには多い。作者のトラウマなのではと勘ぐりたく
なる。地元の人間がいろいろと出てきて高倉健にかかわってくるのだが役場の人間の描き方には凄いものがある。直球一本の
主人公とは全然噛み合わない。この辺は見ていてゾゾッとした。
シニアの俳優陣がいい味を出していた。頑固だが筋が通っており男前の岡田英次、人生の機微を知り尽くした金子信雄、地味
なおじいさんの佐野浅夫。奇跡の配役と思う。高倉健は意外にも切れたり、舌打ちしたりと未熟な味を出す演出だ。
最後に一堂が会して侃々諤々となるのだが結論は出ず、女は男のやせ我慢が嫌いということだけわかった。お開きになったころ
外で騒がしい音がする。炭鉱労働者の行進だ。この幻影は炭鉱事故の犠牲者が盆に帰ってきたもののようだ。ちょっとわかりにくい
演出だった。市長がそれを見て錯乱する。
グリーンゲイブルズと思しき骨組みが映っていたが教会であると説明されていた。
山田太一 いくつかの夜 (2005)
主人公の老人(緒方拳)がある偶然がきっかけでわけありの美女(鶴田真由)と親しくなるという話だ。まーたファウスト博士
だった。すごい金持ちでもハンサムでもない老人が何故若い美女と知り合うのかはこのドラマの設定だと少々無理がある。お礼
に一回訪れただけで関係は切れるような気がする。女性側が男を好き好きとなるようなマジックが何にもない。
妻に先立たれて少々淋しいにせよ美女と関係を持ちたいと思うのはどうなのか。本当にやったなら恥を掻くか財産を奪われる
のが関の山だろう。ハイヤームのように酒でも飲んで楽しかった過去でも思い出していれば良いではないか・・・というのが私の
持論である。
山田太一 春の惑星 (1999)
老境に入る少し前の緒形拳が出てくる。彼は商社のバリバリの重役で幹部と激しくやり合ったり面接で辛辣な言葉を吐いたり
するが、格好よく決まっている。たまたま面接で辛辣な言葉を浴びて不採用になった女子大生(ともさかりえ)は頭に来て同棲中の
彼氏(いしだ壱成)にその重役を殴れと命令する。二人は高級バーで差向いになりバーボンを注文する。いざ殴ろうとすると緒形拳
はぐったりと倒れこむ。そのあとの会話が面白い。ここまでのスピード感と意外性はとても新鮮でユニークだ。久々の大傑作かと
思い続きを観た。
するとこの後、手塚理美、中井貴一が出てきてみんな意気投合し、なんだかふぞろいの林檎たちみたいな雰囲気になって終
わったのである。でも面白かった。
山田太一のドラマに出てくる人物のキーワードは「エリート然としていないが俗物ではない」というもののようだ。俗物は冷たい
目で見られ、エリート臭プンプンの人物はこっぴどくやられる。
オーディオ雑誌 Net Audio vol.16
最新のオーディオ界の状況を探るべくNet
Audioを購入。音源ディスクが付いて1300円だ。24bit
192kHzのFLACとWavの
ファイルはパソコンに読み込んでfoobarで再生できた。AsusのXP機だがRealtek
HD オーディオが付いているので、たぶん
ハイレゾで再生できていると思う。DSD 11.2MHzのファイルは簡単にはいかない。
機器についても詳しい記事が載っている。どうもハイレゾオーディオはNetwork
PlayerとNASの組み合わせが主流になる
らしい。とすると回転メカのない世界がやってくるのか。Network
Playerにはパイオニアの優秀な普及機があるのでまあそちら
に行っても良さそうだが、本来ならデンオンのユニバーサルプレーヤーが正しい道のように思える。SACDとDVD
audioの他に
USBからFLACファイルが再生できるのだから。
それと問題は音源の品揃えのようだ。雑誌にもあらましが載っていたが、Webを覗いてみるとハイレゾ音源とされているもの
はSACD、DVD audioからの流用がほとんどであれっ?と思った。今後増えるかどうかだが、あまり期待は持てない。この日本
でDRMフリーの音源が増えるはずがないのだから。
映画 エル・マリアッチ (1993)
メキシコのとある町に流れ着いた流しの歌手が事件に巻き込まれる。いいかげんな警察と立派な酒場とフォードのトラック
が走り回っているのがメキシコから受けた印象だ。主人公のエル・マリアッチはスペイン系メキシコ人、麻薬の密売人は白人、
手下たちは混血メキシコ人のようだ。手下たちはゴミのように次から次と殺されてゆくが、最後はエル・マリアッチが白人を
射殺して終わる。なんとも後味の悪い映画だった。
映画 軍用列車 (1975)
辺地の砦に向かう軍用列車に乗り込むことになった元大学講師でお尋ね者のディーキン(チャールズ・ブロンソン)が主人公
のようだ。音楽も映像も素晴らしいし、何が起こっているのか後半部分まではわからない仕組みになっているというとても映画
らしい映画である。蒸気機関車が薪で走っていて、連絡も電信で取っている。砦の近辺にはインディアンがいた。馬はたくさん
持っていたが武器は槍のようなものだ。銃は持ってないのかと思ったら悪党と組んで列車から奪う作戦だったようだ。北部の
インディアンが長年抵抗を続けた理由が馬と銃によるというのは、ジャレド・ダイアモンドの銃・病原菌・鉄を読んでいるとだいたい
想像がつく。そういった視点でも楽しめた。
映画 幸せはシャンソニア劇場から (2008)
パリの郊外にあるつぶれかかった劇場を舞台に労働者、芸人、資本家が繰り広げるドラマ。1935年のフランス
は左派政権で労働運動が盛んな様子が背景にある。交渉の末週40時間労働が勝ち取られたという。倒産した劇場
を立て直すというよくあるストーリーだが楽曲と歌手は本物で、ムーランルージュのようないやみなところもなく、息子が
父親に会いに来たところではほろりとくる。これに出てくる友情は本物だ。自由、平等、友愛のお国柄なのか。
映画 女主人の秘密 (2008)
現代イタリアのいい生活−高層マンションに住み、アルファロメオに乗り、美人の妻がいてファッションとワインは最高
とくれば、ジャックメスリーヌの願望をとりあえずすべて叶えたことになる。でもこの夫婦は不妊問題や浮気問題を抱えていて
あまり幸福ではなさそうだ。イタリア人の会話は情感的でありフランス人ほどストレートではないのでなかなか真理に到達
しないように思えた。この話も変な妥協した感じのハッピーエンドになっている。
山田太一 春の一族 (1993)
全三回のテレビドラマ。本郷の古いアパートに中年の男(緒形拳)が越してくる。大家とお隣さんに手土産を持って挨拶に回る。
丁寧なやり方だが若干うざったがられているように見える。美人が一人登場する。近くの店で惣菜を売る女(十朱幸代)だ。コロッケ
を買った緒形拳だが挨拶まわりの時、彼女が帰ってきた。偶然にも同じアパートの住人だったのである。3回ものだけあって住人
たちとのやりとりは丁寧に描かれている。しかしこの設定はものすごいショートカットだ。話が早いと言える。
またファウスト博士かと思ったがそうではなかった。どちらかというとめぞん一刻に近い。緒形拳がコマネズミのように動きまわ
って、周りと接触するが年寄り以外の反応が悪い。みんなそれぞれ問題を抱えていてそれが順番に噴き出してくる。うざったがられ
ていた緒形拳が相談を持ちかけられ実力行使で干渉してゆく。まるで横暴な家長のようなふるまいである。今回はたまたまそれが
うまくいったようだ。ばらばらになった個人の擬似家族が瞬間的に成立したのである。しかしそれでいいのかどうかやはりお互いに
確信が持てないのだった。
山田太一 春の一族
本来なら口出し無用の他人の問題に敢えて首を突っ込むとどうなるかがテーマである。当然のことながらものすごい反発を
食らうのだが、或る意味捨て身なのである。たまたまうまく行くこともあるよという話になっている。
音楽も素晴らしいし、配役も絶妙だった。引きこもりの高校生は浅野忠信、ルームシェアの女子大生は中島唱子、国生さゆり、
別居中の代議士の妻が十朱幸代。この人たちがアパートの住人である。
高校生が片思いしている音大生、中年男が罠にはまったホステス、頑なに夫を拒否する別居中の妻も登場するが美人度
が微調整されている。十朱幸代を食ってしまってはいけないのだ。
こうしてみると世代間の温度差があるようだ。大家(江戸屋猫八)、近所の住人(内海桂子)はいろいろ凄い経験をして今は
達観の境地、中年男(緒方拳)は一途な会社人間から一転して無職だが生き方を自問自答するような感じ、若い人たちはもっと
視野が狭く自分のことでせいいっぱい他人は関係ないというスタンスである。これらが交じり合うとたぶんろくなことはないので
少し交じっては離れてゆくくらいが正解なのだろう。
山田太一 春の一族 結末
引きこもりの高校生は中年男が音大生のこと仕事のことに友達のように力を貸してあげたことにより一歩を踏み出す。音大生
と面識を持ちバイク便のバイトで稼げるようになる。しかし最後はデートにしつこく誘ってストーカー扱いを受ける。代議士の妻は
離婚が成立しさばさばするはずが後悔も少しあるようだ。中年男と酒を酌み交わし一晩だけなら相手をするわと言う。これには
ドン引きした。中年男は妻に会いに行くが妻の頑なな姿勢は変わらずこれは離婚になるだろう。女子大生たちは相変わらずだ。
気の強い国生さゆりが家族も友達もいて別に淋しくなんかない、アパートの住人との付き合いは必要ない、迷惑だと言い放つが
このへんの考えが正解に近いのだと思う。山田太一もそう思っているのではないか。
大家、その妻、近所の老女は最後に修羅場となり自殺未遂やらの空中戦を演じた。こちらがファウストだった。
ありふれた奇跡
これを考えた山田太一はすごいなと思う。誰かと出会ったとき無数の偶然が重なってそうなったと考えれば奇跡のような
事に思えるが、それはありふれた奇跡なのである。よく起きる出来事なのだが説明は不可能という感じである。幸せが無事である
というのもありふれた奇跡のようなもので一瞬にして壊れるのもよくある現実にすぎない。壊れるほうは説明可能なことが多い。
しばらく考察を続けてからドラマのほうは見ようと思う。
(つづく)