2013年の音楽生活5
電圧増幅段がこれでいけるとなるとBUF634でも試してみたくなるのが人情というものだ。
BUF634は高価だし手持ちも少ないので過去のアンプを改造することにした。
ディスクリート化は予期していなかったので狭い基板に無理やり押し込むことになる。なので一部ギブアップして
空中配線になった。
さわやかで躍動感がありとてもいい。LME49600と比べるとやや脂の乗った音になると思う。
私の作った高規格のヘッドホンアンプ、例えばK79SEPPやK405/J115PPをアップル純正イヤホンで聴くと
それほどでも無いのだが、ビクターのヘッドホンで聴くと俄然本領を発揮する。どうやらPHA-1にすでに勝っていた
ようだ。
今回のミニアンプ2種も機動性も考えるとPHA-1にそれほど劣るとは思えない優れ物だ。散歩の時の定番に
なりつつある。
DVD コルトレーンの世界
少年時代に黒人教会に通ったコルトレーンは両親からスピリチュアルな影響を受けて育ったらしい。
狂ったように吹くR&B、セロニアス・モンク とのセッション、マイルス・デイビス バンド、自分のバンドと
活動の場を移していった。ジャイアント・ステップスの音楽はコード進行の暗記が必要なものなのに対し、
カインド・オブ・ブルーではコード進行が単純なモード奏法で長いソロを取るという違いがあった。レコーディング
セッションだと思うがコルトレーンのソロの間マイルスが彼のソロを聴きながら後ろでタバコを吸っている映像
がある。
マイ・フェバリット・シングスでは後半フリー・ジャズに近くなっており中東音楽の影響が見られるという。
聴いていてチック・コリアのReturn to foreverの感じがとてもした。
途中にチャーリー・パーカーの映像が入っているので一瞬コルトレーンなのか戸惑ったが、卵のように
丸いのがチャーリー・パーカー、四角いのがコルトレーンと区別がつくようになった。
映画 海潮音
二度目の視聴になるが今度は山口果林に興味の対象が移った。ショックで記憶喪失になった女の設定だが、
安部公房と別れて能登の海岸で倒れたと想定しても話が接続るのでなかなか面白い。
撮影終了後安部公房との生活が始まる。
この映画は出てくる人物がみなほどほどに俗物なのだが、ハイヤーの中で池部良が運転手と語る部分が実存的会話に
なっている。
「別の人間になって生きてみたいと思わないかね。」
「また一からやり直すのはどうも。」
登場人物の中では祖母の
「伊代は自分のことだけ考えていればいい。」
という発言が一番客観的だ。
映画 エーゲ海の天使
ギリシャ人の住むこの島にはドイツ軍が来てイタリア軍が来て英国軍が来るのだが、ギリシャ人は
和戦両様の構えでそれらを迎えうつ。相手が海賊だったら隠しておいた武器で徹底抗戦するし、軟弱な
イタリア軍なら懐柔して住んでもらう。
確かギリシャ本土ではこの裏表の有る国民性が災いして内戦になってしまったと思う。
映画 他人の顔
武満徹大活躍の映画という印象だが後の小澤征爾の奥さんも出てくるし三島由紀夫の秘蔵っ子である
村松英子も強烈な印象を残す。
安部公房原作・脚本の貴重な映画だがシュールさはさほどではないもののいろいろ興味深い作品になって
いる。
日常モードと実存モード
人間には両方のモードが元々あって切り替わるだけに過ぎない。余命宣告されたり、いじめにあったりすると
実存モードに入る。これは脳のモードであるから外側からコントロールするのは難しい。
キルケゴールが実存モードに入ったのは家が裕福で生活の心配が無かったからだとも考えられる。
日常モードと実存モードが交錯するとある種の可笑しみが生まれる。これが安部公房の文学である。
戯曲 友達 では、日常モードの一人の男のアパートに実存モードの8人家族が乱入する。
侵入した次女が 「ひとりぼっちはいけないわ。不幸なことよ。」 と言い、
男が 「家宅不法侵入罪だ!」 と言う。
これを詐欺師集団と一般人の話と考えると見誤る。
祖母 「タバコなんて誰が吸おうとどのみちケムになる。」
長女 「盗んだ人間も盗まれた人間も、結局区別がつけられないってことね。」
父親 「幸か不幸か人間の考えることは似たり寄ったり。」
実存的会話になっている。そして全体は何かの暗喩かも知れない。
映画 ミニミニ大作戦
知的で正義感のある?泥棒グループが2700万ドルの金塊を奪回して夢を実現するという
お話し。改造したミニ(車)が大活躍する。
各自が実現したその夢とは、
豪邸に住みアストンマーチンを乗り回すこと。
スペインに初版本と靴のコレクションを収納する家を建てること。
金塊は使わずとっておいて美人と普通の生活を送る。
どれも普通に労働して納税すれば人生の後半のそのまた一部くらいで実現しそうなことばかりだ。
まあ若いうちにやりたいのだろうが、もし出来たとしてもそれはそれで今度は実存的悩みが出てくるの
ではないだろうか。
LT1010のを作るとなるとDC−DCコンバーターを搭載しなくてはミニケースに収まらない。部品はあるので
作ってみる。
幸福論のおとし穴
福田恆存
もシーナ・アイエンガー教授も見落としていることがある。本当の幸福は数量限定商品であり、
しかも期間限定ときている。限度を超えると実存的悩みもでてくる。幸福とはかように難しいものなのだ。このこと
はいろいろと検証可能である。
平穏で豊かな生活なら努力次第で多くの人々が得ることができる。これも時代や生まれた国によって大きく
影響を受ける。
平穏で豊かな生活=幸福 とあらかじめ限定してしまえば彼らの議論も成り立つことになる。
映画 クロスファイアー
仏映画。護送車の襲撃で幕を開ける所がアラン・ドロンのシシリアンと同じだがこちらは軍隊並みの
武装で現代のフランスはこんななのかと少々驚く。
退職間近の警視が活躍するところはジャック・ニコルソン主演のプレッジと同工異曲のようだがこちらは
大活劇の挙句悪を殲滅してしまうので後味はだいぶ違う。
南仏の田舎町がリアルでこのようなら気軽には旅行はできない。
映画 砂の女
貴重な安部公房原作・脚本の映画。昆虫学者がいつのまにか蟻地獄に入ってしまっているという仕掛けに
シュールな笑いが込み上げてくる。勿論昆虫学者は日常モードで村人は実存モードなのでかみ合わない。
岸田今日子がアリジゴクである。
単なる寓話と違うのは男がだんだん実存モードになって行くが今度は女が日常モードで応対するというような
滑稽さを含んでいるところだ。
このような持ち味は安部公房作品でしか味わえない。
木田元 反哲学入門
ここでいう反哲学とはニーチェ、ハイデガー、デリダあたりを指しているのだが、哲学の毒についても
説いている。
だから「子どものための哲学」なんて、とんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を
教える必要はありません。哲学なんかと関係のない、健康な人生を送るほうがいい。
と述べている。これはやはりあの本のことを言っているのだろうか。
池田晶子 14歳からの哲学
本人は若い頃から実存モードに入り込んで抜けられないのではないのだろうか。どうもそんな気がする。
実存モードに入るかどうかはその個人の深刻な体験によるものなので、こんな本を読んだからといって中学生
が実存モードに入れるわけでもない。
本の発売から4ヶ月後、ニュースステーションでの発言
池田晶子
「考える以外人生そんなにすることがないと確信している。だから哲学をやっている。」
「考えるということが人間の根本。」
「自分とは何か?本当に難しいことですね。」
「他人の死と自分の死は違うものなので自分の死のことは考えても誰にもわからない。」
森永卓郎
「昔、自分とは何か、時間とは何かと考えていたらあるところで怖くなったのでやめました。」
どうやら彼は実存モードが危険であると察知して日常モードに戻ったようである。
日常モードの森永卓郎氏と比べ実存モードの池田晶子女史は何を言っているのかよくわからなかった。
二人のやり取りからは池田晶子女史は日常モードのことを見下しているのだなと感じた。
しかし私の経験では人間、日常モードの思考三昧で生きても結構有益で楽しい、と思う。
伊坂幸太郎 死神の精度
クールな公務員のような仕事ぶりの死神がちょっとシュールだが、人間とのやりとりは軽妙の
一語につきる。安部公房のような不条理さはない。音楽に夢中になるところは人間の誰かさんに似ている。
人間はやってることは出鱈目だが音楽を作ってCDにしてくれることが死神に感謝されているようだ。
そういえば私のヘッドホンアンプも死神に感謝されてもおかしくはない。
地元の図書館で見つけた安部公房全作品。やっと巡ってきた至福の時間。もう迷うことはない。
1冊づつ全巻を30週かけて読んでゆこう。豪華な安部公房全集はいつかどこかでお目にかかる
かもしれないがそのときはまたその時だ。
映画 狼は天使の匂い
音と映像に何故か引き込まれる。これは辺境萌えの映画でもある。モントリオールは大自然の中に
つくられた都市だ。巨大な橋があり周辺の水辺では狩りができる。
ちょうど満洲のような感じだ。
本当の幸福は数量限定と書いたが、アルボムッレ・スマナサーラ師の幸福の定義である所有欲、知識欲、
権力欲、健康と美についてよく見るとその中に数量限定のものが含まれている。
健康と美はDNAでほぼ決まっているので努力が報われないことが多い。美人の数は少ない。権力欲も危険の
大きい目標である。追求すれば不幸に真っ逆さまに落ちる可能性がある。権力を握れる人も極僅かである。
仏教は誰でも手に入る数量限定でない幸福を説いているのでかえって本当の幸福から遠ざかるという
おとし穴がある。哲学は幸福追求とは真逆の道である。
シーナ・アイエンガー教授の、インナー・コア(真実の自分)を発見し自分の人生を知ることとは自分のDNAを
知れということだろう。
自分のDNAを知る方法
世に出て活躍している人の著書やインタビューを見ていると何故成功したのかその理由がぽろっと
書いてあったりする。これさえ知っていれば自己啓発本など読む必要はなくなる。
ある女性評論家は本屋で多湖輝の頭の体操を立ち読みしていたという。ある作曲家は疎開先で
一日中蓄音機を鳴らしていたという。国語辞典を読んでいた人もいる。三島由紀夫はあるときから突然
成績優秀になったというが理由は不明である。公文式のCMでビートルズのハロー・グッドバイが流れる
ことがあるが脳の活性化と何か関係があるかもしれない。
学齢期前から小2のころまでに脳を活性化できればあとはわりととんとん拍子に進む。
もし進まなければそういうDNAだったことになる。自分探しとはこういったもののことを言う。
ダーティハリーを観た後でマジソン郡の橋を観る。
まずダーティハリーが何を見せたかった映画なのかがわかるのは、キャラハン刑事がサンフランシスコ
市長の業務司令を断ってからの経緯だろう。そこまでは軽い意外性はあるものの想定できる範囲内の話
だ。
刑事がゲートからバスに飛び乗ったところからこの話の特異性が現れる。刑事がスナイパーになり
犯人が恐れおののくという構図である。これは新しい。
次にマジソン郡の橋を観る。クリント・イーストウッドの映画は何本も観たがこれはマジおじいさんになっ
ているではないか。どうやら設定は砂の女と同じパターンなのだが恐怖とはほど遠い進行だ。二人とも
安定の日常モードなので会話が噛み合うことこの上ない。アメリカ精神の元では実存モードなど存在しない
かのようだ。女に影を落とす移民の悲しみも小さな感傷くらいに描かれている。反抗期だった二人の子も俗臭
プンプンの大人に育っている。会話にジョークの応酬がないがこれもアメリカの姿なのだろうか。
実直な不倫ストーリーというだけで特に涙するようなものは無かったのである。
と思って観ていたら4daysという本のところでクラっときて散骨の場面で涙ぐんでしまった。ロバート
が上手すぎる。
安部公房 第四間氷期
SFだけど一味も二味も違っている。研究者がいつのまにか研究対象にされていたり、自分に死刑宣告
された自分がいるというシュールな情景および発明の素といえるアイデアでちりばめられた初期の傑作で
あるといえる。
いよいよ結論めいたものが見えてきたような気がする。
用語をこのように定義しておく。
本当の幸福 数量限定の極めて満足度の高い幸福。脳の報酬系を刺激し続けるため初老うつになりにくい。
一般的な幸福 一見非の打ち所のないように見えるがよく考えるとどうも違っているなと感じる幸福。数量は
確保されている。
ストア派的幸福 不幸だが本人が幸福と感じているのでそれで良い。
夢 極めてまれな成功を極めること。追求すれば叶っても叶えられなくても不幸に落ちる。
この用語を使って何か文章を作ってみる(単なる作文です)。
夢を追求しないようにして本当の幸福に辿り着くように舵を取ろう。但し本当の幸福は時間限定なので
まもなく終了する。一般的な幸福には惑わされるな。実存モードに入りやすく入ると途端に不幸になる。
ストア派的幸福は不幸のまま時間切れになる。
安部公房 人間そっくり
シュールな諧謔に満ちた安部公房文学の最高傑作か。結局厳密には火星人と気違いの区別がつけられないわけで
火星病の地球人と地球病の火星人の区別もつけられない。相手が火星病の気違いと思っていたら何のことはない自分が
地球病だったという話もありえる。このめまいがするような主客の転倒は古今に比類するものが無いのだが強いて挙げれ
ばきみまろの話術がこれに近い。
どんな些細な事にもケチを付けられる能力と、何でも尤もらしくケムに巻けるだけの理系の知識なしでは、このような文学は
成り立たないはずだ。
辺境萌え BS朝日1 遊牧の民カザフ 美しきアルタイ山脈に生きる
中国の辺境、モンゴルに連なるアルタイ山脈の南に大きな湖カナス湖がある。そこは石油の採掘で発展した都市
カラマイからアスファルト道路で結ばれておりすでに大観光地と化している。
カナス湖からアルタイ山脈の麓へとさらに奥へ入ってゆくとそこは草原でカザフ族が昔ながらの遊牧生活
を営んでいる。ゲルに住みながら移動して、羊の肉の燻製と羊のバターで挙げた小麦パンとミルク茶を食べて
生きている。
カナス湖からはシベリア側に川が流れており周辺には草が生え放牧、野営に好適な地になっている。テレビでは
確かにそういう映像が流れていたがグーグルマップで見ると川沿いには畑地がすでに広がっており漢民族による侵食
がここでも進んでいるらしい。内モンゴル自治区と同じ道をたどるのだろう。
映像に出てくるカザフ族は中国製の服を着ているが風貌はウイグル族に似ている。
周辺には遺跡が残っており岩絵からは古代には野生動物も多くいたことが推測される。
映画 恐怖のメロディ
古典的なストーカーの話だなあと思い見ているとある言葉に引っかかった。ストーカー女が吐いた言葉、
Does he run through your hair ?
これは、勿論ビートルズのヒアーゼアーアンドエブリホエアーを連想させるが次の瞬間アッと思う。
この歌は美しいバラードと長年信じてきたが実は最凶のストーカーソングだったのかも。愛の言葉が
全部男の妄想でしかも女がこの世にもういないとしたら。
HP-RX700 + SIT ヘッドホンアンプ
これとかHP-RX500 + SIT
ヘッドホンアンプミニで楽しむ音楽は素晴らしい。
新潮文庫版 燃えつきた地図
巻末にあるドナルド・キーンの解説を見ると、最後に失踪したのは探偵という解釈になっている。本文には
或る夕刻にカーブの手前で逡巡しているのが根室洋であるかのような記述も少しだけあり混乱するのだが、持
ち物やぼくという一人称、文体からこの人物が探偵であることは断定できそうである。
街中から人が消えたり喫茶店の様子が変わったりしているのはこれが夢だと考えればよくあることである。
時系列的には探偵が女とベッドをともにした明け方に見た夢で小説が終わったことになるだろう。
ドナルド・キーンはこの箇所が夢とも現実とも述べていない。
これが根室洋の失踪した種明かしであり彼が探偵となって自分探しを依頼されるという循環モデルは面白いの
だが、面割れというネックがあり小説にするのは難しい。
和光晴生著 赤い春
レバノンが何故内戦により破壊されたのか明快な解説が書かれている。
中東戦争により発生したパレスチナ難民がヨルダンに逃げて一部がコマンド化し外部からのコマンドも
集結、イスラエル占領地域にゲリラ攻撃を繰り返す。1970年ヨルダンのフセイン国王が行った弾圧により
コマンド勢力はレバノン南部に拠点を移すが南部国境地帯での活動は一応認められていた。
ここにおいて某国の高官がレバノンの右派民兵組織を扇動してパレスチナ勢力を攻撃させようと
したのが裏目に出て全面戦争に突入したのが1975年から始まるレバノン内戦である。レバノン左派勢力とパレス
チナ勢力の同盟が成立しベイルートが二分された。これに対しイスラエルもレバノン南部に侵攻し占領する。ホメイニ
体制のイランからも義勇兵が送られてコマンドに合流する。PLOは世界からの支援を受けてバブルのような状態に
なる。コマンドは難民の失業対策のようなものとなり延々とゲリラを繰り返す。イスラエルも何度か大攻勢を加えたが
(その結果ベイルートのパレスチナ勢力は国外に退去)最終的にはイランの支援によるシーア派軍事組織ヒズボラに
敗退しとうとうイスラエル軍は2000年には撤退する。
これがイスラエルに目を向けた場合の流れである。ヒズボラは強い。なおシリア軍や国連PKFについては触れてな
いが彼らは単なるおじゃま虫なのだろう。
この本は当時パレスチナ周辺で起こっていたことの活写だけでなく哲学的な部分も多く含まれていて大変参考に
なる。
通常の作戦と決死作戦の違い。
通常の作戦とは損耗戦のことであり部隊の何割かは死ぬが全滅するようなことはない。たまたま死ぬこともあるし
死なないこともある。それだけでも怖いのだが皆なんとか折り合いをつけつつやっているのだろう
一方、無数の敵中に少人数で打って出るような作戦はいわゆる決死作戦で必ず死ぬわけである。それができるかどう
か。できれば逃げ出したいという気持ちは誰しもあるだろう。
自分にそれができるのかという問いを自問自答しても答えは出るはずがない。
話は別だが、たまたま交通事故や犯罪被害にあった場合とか若くして不治の病に冒された場合、「なんで自分が?」
という考えに捉われることがある。
これもどんなに考えても答えは出ない。
このように答えの出ない問題を考え続けるとだんだんおかしくなるのではないだろうか。哲学はこれに似ている。
世の中はゆるやかな損耗戦なのだと考えると少し納得する。
安部公房 探偵と彼
昭和31年発表の作品。頂点の「人間そっくり」が昭和41年だから10年かけて登りつめたわけだ。
出てくる話自体は少年期の実話っぽい。ただ普通の子供と違うのは小さな材料から最大の妄想が
次々と出てくる少年だったということだ。案外この辺に創作の秘密が有るのではないかと思う。
今日は日曜日なので図書館へ車で行く。ガブリーエフのラフマニノフ2番のCDを聴いてみる。いかにもロシアの
暗い森を思わせる序奏がなかなかだと思う。ガブリーエフの柔らかいタッチは好みが分かれそうだ。
安部公房作品集第14巻を借りてきて家のリビングでコーヒーを飲みながらページをめくる。コーヒーはセブンの
ストローつきのものなのでこぼすことは無いと思う。
裁かれる記録―映画芸術論というタイトルで映画地下水道の論評が書かれている。これは確か途中まで見て
爆弾に触ろうとする場面で電源を切ったやつだ。爆死するのを見たくなかったからだ。ところが安部公房はシアター
で見たらしく最後まで見てしまったようだ。副官が死んで隊長と記録係が地上に出られたとある。その後のストーリー
も殺伐としたもののようだ。安部公房にネタばらしされたようでなんだか光栄だった。
レジスタンス映画としてはどうもモヤモヤした感じが残ったらしく映画論、意味論を駆使して論評を試みているが
本質に迫れたかどうかは心許ない感じがする。
ワイダ監督は見たら失望するものを描いてみたわけで、もしかすると私のように観るのを止めるというのが行動を伴なう
正しい解釈なのかもしれない。
(つづく)